ネパールから帰って3ヶ月(エッセイ)|大阪の阿倍野区でシンギングボウル・ネパール雑貨・ネパール料理なら『わのわCAFÉ(わのわカフェ)』

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ネパールから帰って3ヶ月(エッセイ)

つぶやき

3ヶ月というのはちょうどいい頃で、遠すぎもせず、近すぎもせず。
少し客観性を帯びて来た頃かと思うので、帰って来てからすぐに書いた文章を書き直してみました。
バラバラなところもあるけど、いま、わのわのことを考えるにつけ、
この思いを世に出しておきたくて、
みなさんに見て頂きたいなあという気持ちが強くて
思い切ってここに載せちゃいます。
また書き直します。
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ネパールの旅       阿部未奈子               2011年9月
昨年11月、ドイツ・ケルンとデュッセルドルフで踊らせて頂くという得がたい機会をいただき、ドイツに25日間滞在した。今年はなんと縁あってインドと中国の間にはさまれたエベレストとブッダの国、ネパールを訪問することになった。
私は大阪の音楽一家に生まれ育ち、いま家族で音楽企画事務所を営みながら、ダンスと歌を中心とした表現活動をしている。両親が合唱愛好家だったので子どもの頃から兄や姉と一緒に歌っていた。踊りが好きで、小さいころからバレエを練習して、日本舞踊やジャズダンス、アフリカンダンスなど様々な民族舞踊にも興味があり、いまは自分で創作して音楽にのって即興で踊るなどしている。近年は、幼稚園や小学校、病院で職員と話し合いながら公演やワークショップを組み立てること、子どもの表現をひきだす活動に力を入れている。
音楽やダンスには、年齢や性別、文化や言語など、どんな境界線も瞬時に越えてしまう力、時間や経験を越えて人に何かを気づかせる力、人を笑顔にかえてしまう力がある。
人々の生活スタイルの小さな違いの積み重ねが大きな食い違いとなり、世界各地で戦争を引き起こしていることを考えると、この力はまさに希望だと思う。
家庭のレベルでも、家族・親子の間でもコミュニケーション不全による問題や家庭で抑止できないままに起きてしまう犯罪などの問題が深刻化している現在の日本で、音楽やダンスが持つ界面活性剤的な役割は本当に大きいと実感している。
私たちの音楽企画は2010年の5月から「わのわ」というスタジオをオープンしている。私たち家族のほか、音楽を中心とした様々な活動をしているこどもや大人がその場を使って練習を重ね、生活の中のささやかな楽しみを共有している。「わのわ」が、街に世の中に元気を発信して行く源みたいになればいいなと思っている。

ちょうど「わのわ」をオープンして1年も経たない2011年の初め頃。
Facebook上でネパール人女性と友だちになった。
カトマンズの繁華街、ナヤバザールという所で子どもの共同生活施設「ミトラタホーム」を主催するナンダ・クルという女性だった。
そこでは60名を越える孤児や貧困などの理由により親と一緒にくらせない子どもたちが共同生活している。
お互いの活動を知り、いくつかの言葉を交わすうちに私たちは言葉や年齢の壁を越えてすっかり仲良くなった。お互い、子どもが好きで、音楽が好きで、ポリシーは「learning by doing」。似たような考えを持っていることに気がついた。だから、彼女の「ここへ遊びに来なさいよ!うちの子どもたちと一緒に踊らない?!」というお誘いに、「はい、是非行きます!」と何の迷いもなく答えた。
具体的に日程を決める相談をしているうちに、私の個人的訪問は、ナンダさんの豊かな創造力によって「チャリティーイベント」という形に発展した。
「あなたが踊ってる素敵な写真を送って!チラシをつくるからね」
(どんなダンスがいいのかな、、、)
「ネパールー日本文化交流プログラムというタイトルになったよ」
(え!日本文化紹介するの?自信ないな、、、)
「あなたは30分のダンスショーをしてね」
(30分て、、長くない?!)
「素晴らしい音楽家たちとの共演のダンスもお願いね」
(ひゃーーー 責任重いなー)
内容が次々に発展して行く。ナンダさんは人をその気にさせるのがうまい。大阪の商売に長けたおばちゃんのノリだ。ただ遊びにいくつもりだったけど、これはもはや仕事のようだ!でもお客様が来て下されば集まった入場料で子どもたちの生活をサポートできるのだと思うと、がぜんやる気がわいてくる。そのことをナンダさんもよく知っている。いい仕事をしたい!
スカイプでナンダさんの顔を見ながらお話していると、カトマンズがどんなところで、どんなイベントになるのかよくわからなくても、その明るい声と表情にふれていると、きっと楽しい滞在になるだろうという気がした。また、彼女から活動を掲載したウェブサイトを紹介され、それを見てとても好感をもった。そこにあった子どもたちの笑顔がとてもいきいきしていたからだ。
ナンダさんは、カトマンズのタメル地区で楽器店を営んで生計を立てている。幼い頃に母親を亡くし、貧困と過酷な労働の中で育ったナンダさん。彼女は子どもたちに自分が体験したような辛い思いをさせたくないという気持ちから、2000年にカトマンズでアメリカ人医師とともにミトラタネパール基金を設立。ひとり親家庭や、孤児をはじめとした貧困に苦しむ子どもたちの共同生活施設「ミトラタホーム」をボランティアで営んでいる。
またホームでは定期的に若手アーティストがネパールの伝統音楽を中心に子どもたちの指導に訪れている。サーランギ(弦楽器)、マダル(太鼓)、バンスリ(笛)、歌、ダンスである。
これは音楽を愛するナンダさんの若手アーティスト応援育成活動の一貫でもある。
そして近年、成長した子どもたちが働いて生活の糧を得ながら勉強出来るトレッキングツアー会社を設立したばかりだ。ただ一時の憐れみや同情ではなく、子どもたちの人生まるごとに対する持続可能な支援を、ナンダさんが模索しながらどんどん実践していることに驚いた。私の友人がバングラデシュの貧困に苦しむ人々を支援するフェアトレード団体で活動しているので、フェアトレードという考えは知っていた。でもそれは海外から来た人が知識を持ち込んで現地の人を支援する形でようやく実現するものと思っていた。けれどナンダさんは自分の体験をもとに、自分の国の子どもたちのためにそれを実現しようとしている。本当に大変なことだと思うけれど、人生を賭けて、前だけを向いて実践しているナンダさんに、何か世の中の未来を照らす明るい光を見るような思いがした。
空港で初めて会ったナンダさんは、一般に小柄なネパール人よりもさらに小柄だけれどとても表情豊かでパワフルで知的な女性だった。私は彼女を一目で好きになった。私たちは到着したその日から沢山の人に会い、また2人でネパールの餃子・モモをつつき、エベレストビールを飲みながら将来のことについて話し合った。
彼女の夢は、いま子どもたちが住んでいる繁華街を出て、子どもたちにとってよりよい環境で新しいミトラタホームを建てること。建設するのは女子棟、男子棟、外部または外国から来た人のためのゲストハウス、そして地域の人にも解放された音楽・芸術・クラフト学習棟。いずれも将来的には成長した子どもたちの研修場所、職場としての機能も果たす。
まずはほんの少しの土地を買うところからはじめて、募金を徐々に集めて施設を子どもたちみんなで手分けして建設したい。それが彼女のビジョンだ。莫大な費用を要する事だが、彼女をみていると、なぜかきっと実現すると信じられる気がした。
「私は人に仕事をつくって忙しくさせる名人なのよ」と冗談まじりに話していたが本当にそうだ。そしてその仕事を「任された」人は不思議に幸せな気持ちになれる。ナンダさんと常に行動を共にしている有能な男性スタッフ、ウジャルさん・ディーパックさん兄弟、マンガルマンさんは自分自身の忙しい仕事をこなしながらもボランティアでナンダさんを強力にサポートしている。このように子どもたちを守り育もうとする大人たちの姿は素敵だった。
近年、子どもを支援するといいながら集めたお金をビジネスに使っている怪しいNGO団体が出現しているそうだ。でも私は実際にミトラタホームを訪問して、子どもたちの明るい表情やくつろいだ雰囲気から、ミトラタネパール基金が子どもたちを支援するために設立され、維持されていると信じることができた。
こうして、「ネパールー日本文化交流プログラム」公演はこうして6/17に開催された。
まったく手作りの、はじめてのコンサート。
正直いって、会場は控え室もなく、私は6曲のダンスごとにお客さんと共同で使うトイレで着替えた。また建物屋上にある吹きさらしのレストランだったために、途中から雨が降って出演者もお客様もぬれるし大変だったけれどなんとか乗り切った。
プログラムは、子どもたちの演奏とダンス、ネパール人の演奏家たちの演奏と、私のダンスの3本立ての内容だった。これは現地の日本人の方に効いたことだが、日本人同士で集まることはなかなかないそうだが、今回はネパールに住む日本人も多く来て下さっていたそうだ。会場の中はネパール人と日本人が混ざり合い、交流と呼ぶのにふさわしい雰囲気となったと思う。
ダンスはモンゴルの曲、トルコの曲、ピアソラを踊り、着物姿で日本の歌を歌ったり手話ソングなども紹介した。ラストにネパールの伝統音楽に合わせて即興で踊らせてもらったところ、思いのほか好評であったことに胸をなでおろした。
ネパール人は自国の文化を大切にするし(絶対にインドと一緒にしてはいけない!)女性が肌を露出することもあまり好ましくない。私の思わぬ一挙一動が相手に嫌な思いをさせたり、失礼なこととなってしまってはいけないと思い、事前に質問したり、衣裳をチェックしてもらったりした。
上演中も終演後も、沢山の方が話しかけに来てくれた。とてもあたたかい人たちだと思った。
特に印象に残っているのは。ネパール人の舞踊家と、その方の奥様で舞踊を勉強されていた日本人女性の方が声をかけて下さったこと。私のダンスに対して『ネパールのダンスはとても民衆的な踊り(日本の盆踊りに似ている)。それを舞台芸術としてもっと質を高めて行きたいと努力・模索している自分たちにとって、今回のあなたのソロダンスでみせてくれたものは、芸術性が高く、大いに励まされる内容だった』とお話くださった。
日本人としてお伝えできることの少なさを感じながらも、何かここに少しでも新しい風を送ることができたなら来たかいがあったなと思った瞬間だった。
**
私の帰国後、彼女はアメリカに渡った。ミトラタ設立のパートナーと主な寄付者、そして息子一家のいるアメリカに渡り、1ヶ月を過ごした。
実は現在のミトラタホームは賃貸で、来年から66%家賃があがる契約になっているそうで、ナンダさんはそれまでになんとか新しい家の建設のめどをつけたいと焦っていた。
ナンダさんの近況報告によると、アメリカ滞在中に新ミトラタホームの土地と建設費用の寄付を募ろうとしたものの、うまくいかなかった。むしろアメリカの支援者の考えは、ミトラタホームの充実よりも、ミトラタの名前を消して、他のネパール支援団体の中に統合してしまったほうが合理的だ、というものだった。
メインドナーとしてお金を出してくれているのはアメリカの人たち。そのお金がなければ身動きがとれない。けれどミトラタの名前を消す事はあまりにも悲しい。
メールから、ナンダさんが心が折れそうになっているのが伝わって来た。
これからどうなるか、もしかするとミトラタホームはなくなり、こどもたちはバラバラに施設に引き取られるなってしまうかもしれない。
私はナンダさんのことが好きだし、子どもたちがいたわりあって大人数で暮らしているミトラタホームが好きだ。ナンダさんの夢のホームに私も自分の夢を重ねている。子どもたちがみんなで助け合って暮らしていける家があり、暮らしを支える糧を得ていく術があり、常に音楽があり、人々が色んな違いを越えてつながり大きな家族のように暮らしている、、、そんな場所が実現したらどんなに素敵だろう。

心はネパールと大阪を行き来している。
さあ、いま身体がある大阪でがんばろう。
「わのわ」と名付けたこの場所には、音楽を通じてすでに多くの方が集ってくださっている。思わぬところからもこの輪に入って下さる方がいる。
「わのわ」をネパールまで広げていくことができると思う。
ネパールの家族たちとは、細やかに安否を確認しながら、長くつきあっていきたいと思っている。
ミトラタホームに関心を持った方には、是非訪ねて頂きたい。
ホームページはここ
いつでも子どもたちが笑顔で迎えてくれる。
寄付をしたい、物を送りたい、などのご相談は私のほうまでどうぞ。
ミトラタネパール@カトマンズ


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